タイトル

手がかゆい。汗をかくようになると手が荒れる。アトピーの一種だという。服の裾でガリガリやってひどくしてしまう。よくないと思いつつ何年も前にもらった薬をつける。ここに書くといつも反対のことが起きる。動けないと思っていたのが動けたり、やり取りしたくないと思ったのにやり取りしてたり。自分の頭は信用できない。信用できないと思っても出てくる言葉を書き留めるしかない。見たかったスーラージュも見れたし、新しい画家も見れた。写真もいろんなタイプのが見れたし、川田喜久治のラストコスモロジーも少し立ち読みすることができた。太陽、月の写真のイメージしかなかったが、見上げた木や睡蓮の浮く水面、コントラストの強い草むらの写真などもあって、写真に撮りたいと思うイメージって案外狭いものなんじゃないかと感じる。縦長の大判の写真集で、イメージの強さに圧倒される。PGIの今回のグループ展ではキャプションが全く無く、室内に置いてあるファイルで確認できることは分かっていたが、とりあえず写真を見ていくことにした。これはこの人だなと分かるものもあれば、分からないものもある。今道子のコラージュされた強烈な静物や新井卓のダゲレオタイプなどはすぐわかる。自分が今いいと思うものはどういうものなのか知りたかった。でも見ていってあまりいいと思えるものがない。雪の上に動物たちがいる写真、観葉植物のようなものと鳥の影が写っている写真。後者は後でラストコスモロジーのものだと知る。そこで不思議と意味が増していく。言葉と写真が響き合っているのか、知っている写真家だからなのか、よくわからない。現代アートのギャラリーでキャプションをつけないのは、作品の邪魔になるからだろうか。なんの情報もなしに作品と向き合うことは、遭遇、出会い、対峙。スーラージュの黒の連作は見てるこちらが試されている気になる。意味がないと同時に感情や熱情も排除されているようで、もう作者の存在も感じ取れない。そこにあるのは黒だけ。対照的に近藤亜樹の絵は色に満ちていて、しかもでこぼこしていたり平面だったり、描くことへの爆発的な熱情で、材料などなんでもいいと言わんばかり。何かを見る時に言葉はいらないかもしれない。タイトルや説明をきいて理解が深まったとしても、最初に見た感覚は変わらないようだ。いつの間にか日付が変わっていた。

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